コミュニティ運営の理想型はなんだろうか

思っているよりもずっとずっと人生は短い。 - もじら組の件より引用。

思うのは、「多数決」という手段のそぐわなさ。信頼関係で結びつく小規模集団にとって、多数決というのは致命的に向かない手段なのではないでしょうか。一人の代表が全ての責任を負う形で物事を決められた方が、この手の集まりにはむいているのではないかと思います。いざというときの決定も早く下せますし。

というか、そもそも組長=代表者、というわけではないんですよね。その辺りの、組織としての意思決定を対外的にも対内的にもクリアにしづらいことは、不幸なことだと思います。

《思うのは、「多数決」という手段のそぐわなさ。信頼関係で結びつく小規模集団にとって、多数決というのは致命的に向かない手段なのではないでしょうか。》の箇所は確かに納得できるものの、それだと代表者の選出が必須になってしまう点が悩ましい。そのようなコミュニティは組織として成立していないという意見もあるだろうけど。ただ、ある程度の信頼関係があれば、代表者がいなくてもコミュニティはやっていけるんですよね。LILOとかをみても。

やはり、今回の件は信頼関係を形成できていなかったことに起因するとは思う。

それはさておき、コミュニティから除名されて然るべきとそのコミュニティの大半の人間が思う人がいた場合、どのような処理を行うことが適切なのだろうか。(処分をもじら組の他のメンバーに委ねている今回の件では当てはまらないだろうが)代表者の責任で除名処分を言い渡したとしても、「代表だからといって他のメンバーを除名する権限はあるのか?」と言い張られると面倒ではある。事前に規約なんかを用意するのもなんか堅苦しすぎるというのもあるし。

PerlコミュニティのLarry Wallは次のような方針を貫いているらしい。以下、努力、忍耐、謙遜より引用。強調部分は引用者。

もちろん、Perlのカルチャーでは、ほとんど何も禁止されていない。この世はすでに禁止事項であふれている。Perlのカルチャーで何かを禁止して、この世の禁止事項をこれ以上増やす必要はない。それが私の考えである。ついでながら、禁止事項を増やす必要がないのはプログラミングだけではない。人間関係においても禁止事項を増やす必要はない。私は、Perlコミュニティの一部のメンバーを−主に、何かにつけて反抗的だという理由で−追放するよう求められたことが何度もあるが、いままで一貫して拒否してきた。そして、これが正しいやり方だと信じているし、いまのところ、このやり方が実際面でうまく機能していることは確かである。反抗的なメンバーは自分から去っていくか、おとなしくなって、他人と前向きにつきあうようになるかのどちらかである。コンピュータプログラマが意志を通じ合うためには、追放されたものに対して各人が厳格になり、受け入れられたものに対して寛大になることが最善の方法であることを、人びとは本能的に理解しているのである。これは不思議だ。しかし、奇妙なことに、人びとは、口を慎んだり聞く耳を貸したりすることに厳格であろうとはしない。これもまた自明のことだろう。我われは自己表現するように教育されている。

これは理想的な形態だとは思う。が、これは開発コミュニティがメインだからできることだろうな、とも思うな。イベント運営などをメインとしたユーザグループのコミュニティだと自分から去っていくこと等はあまり期待できないように思う。正確には、自分から去っていくのは、そのソフトウェアの開発方針等に対して自分の意見が反映されないことによる参加モチベーションの低下に起因すると考えられるからだ。一方、イベント開催などは小規模の場合は一人でも開催できてしまうため、そう簡単にモチベーションは低下しないように思う。

ユーザグループのようなコミュニティの理想的な運用方法というのはどういうものだろう。「代表者は代表者の責任でコミュニティに関するあらゆる決定を下すことができる」という大雑把だが大きな権限と責任を与えてやっていくという方針がよさそうには思えるが……。実際のところはどうなんだろう。